皆さんは閃光のハサウェイをご覧になったでしょうか???
私はこの前見てきました。その上でネタバレなしで言いたいことを言います。
閃光のハサウェイとは
伝説巨神イデオン、無敵超人ザンボット3、機動戦士ガンダムシリーズでおなじみの富野由悠季監督が1989年に執筆した小説である。
1988年に公開された劇場映画の逆襲のシャアの続編
ではない
正確に言えば、劇場映画である逆襲のシャアと同時並行に作成されていた2つの小説版逆襲のシャアのうちの片方の続編なのだ。
混乱を生みそうだが、
逆襲のシャアには
"映画"と"映画とほぼ同じ内容の小説"と"内容が割と違う小説"がある。
その割と違う小説の続編なのだ。
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレンという。
この小説は映画版とは違って
・登場人物の名前が一部違う
・アムロは既婚者
・クェスはハサウェイが誤射して撃墜
というような形になっている。
気になった人はぜひ読んでみてほしい。富野節全開で読みにくい。ただ、映画を見ていれば最低限情景は浮かぶし、なるほどここが映画のここか。と納得できる。
また、小説特有のしっかり解説されたキャラクターの表情やしぐさ、思惑、感情が事細かに説明されているので、読めばもっと逆襲のシャアがわかる。
とにかく逆襲のシャア関連は富野監督の1998年までの仕事で、このハサウェイは1989年から刊行されている。
つまり、逆シャアの余韻のまま創作意欲全開で臨んだ小説ではないかと思う。
逆シャアは歴史的大作であるのは間違いないが、作り手としては観客からのフィードバックなどなどから、至らないところが目に付くようになるはずだ。
それを徹底的に排して、完璧に納得いくものをハサウェイで目指そうとしたのではとも思う。
逆襲のシャアを観た人の多くは
"ハサウェイクズ"
"ハサウェイ氏ね"
"カツ改(Zのカツの再来)"
"イライラする"
"ちょっと黙れ"
"なんてことを"
"戦犯"
"テロリスト"
などと嫌われている。
閃光のハサウェイでは、そのハサウェイくんが主人公だ。
そんな逆シャアの汚点である彼に、富野監督はどんな結末を用意したんでしょうかねぇ。
なお”閃光のハサウェイ”ということで、ハサウェイが
ぴかーーってなるわけじゃない。
この"閃光”が何を意味するかよくわからないが、いい言葉だし、"閃光のハサウェイ"ってタイトルなんかいいよね。さすが富野監督。
映画について
主人公のハサウェイくんと馬のような顔した体育会系で大人で紳士なケネス大佐、そしてその二人をつなぐギギという少女により物語は進んでいく。
作者が富野監督なので、ハサウェイが青臭くイライラする人物で、ギギはクェス二号(こっちも見ていてイライラするガキ)なのかよと予想していたが、まぁまぁまともだった。
原作にかなり忠実だけど、もっと理解不能な言動をしてほしかったw
これ村瀬監督かなり頑張ってあの難解な富野監督の小説を修正したんじゃないかと思う。
だからあの富野作品って感じはかなり薄れてて見易い。
たぶんセリフは小説からの引用だから富野節はあるけどね。(劇中で二か所ほど村瀬さん思考放棄してそのまま喋らせとけってしたようにみえるシーンがあったw)
絵がめちゃくちゃきれいで人物の会話よりもそっちに気がとられることもしばしば。てかもう実写よりいいんじゃないの?アニメーションはさ。
富野作品は常に人物が中央ででかでかと会話してること多いからあんま背景気にしないけど、この作品は街の情景やらがしっかり映され、会話も説明口調じゃなくて、大人で物静かな感じで上品だった。
これはギギがキャンキャンうるさくないからかもしれない。自分の中では甲高い声もだすけど、素直で、時になんやこいつ怖ってなるようなイメージだったから、声優の人のあの角のとれてて気怠いなんともいえない感じは最初は少し違和感があった。
でもギギの無邪気な悪魔のような感じはすごくあっていて、鳥肌立った。セリフがよいのもあるが。
内容は別としてキャラクターの感じはかなり高評価です。
戦闘シーンは、音の暴力ってくらいうるさかったんですけど、ロボットの動きひとつひとつに丁寧に音がでていて、敵のロボットに超独特な鳴き声?のような動作音があってなんか魅力的でした。そのロボットはペーネロペーって言うんですけど、これなんて読むんですかね。必見です。ぺ→ねろぺ↓なのか、ぺ↓ねろ↑ぺなのか、ぺねろ・ぺーなのか?はたまたそれ以外なのか。
わかってはいたけど戦闘シーンは短かった。かなり気合はいっていてすごかったけど。閃光のハサウェイっていうくせにハサウェイが戦うのはほんの数分だったりするw
そして最後はあかるい感じで
[ALEXANDROS]の軽快な楽曲により終わる。すごいこっからの未来が希望に満ちていた
観るべきか否か(ネタバレあり)
個人的には
観たくない
写実感が強すぎる
そして結末を知っている
やっぱり今のご時世、暗くなりそうなものをわざわざ映画館でお金払ってみて、通夜のような表情で家まで帰るのは嫌だ。
エンディング付近のあの"苦悩もあるが、自分たちの仲間や正義のために頑張る"って言う感じ、こわいよ。テロリストはみんな自分たちは曲がりなりにも正義をやっていると思っている。ただ、その結末はどうなったであろうか?
そういうことである。
結末を知らないで観る人はかわいそうだとすら思う。
自分のように最後の第三部の映画を観たくない人は一定数いるのではないかと思う。もしコロナが収束して明るいせかいになっていれば受け入れられると思うが、そうでなければ、三部目だけ興行収入が伸び悩むのではないだろうか?
原作が執筆された当時はテロリズムが日本含め人々に恐怖を与えていた時期であり、そこからシャアとアムロの思想を受け継ぐものとして本作品の着想を得たのではないかと思う。
この作品は三十年前に作られたのに、内容が作りこまれていて、現代のほうがむしろフィットしているように見える。
そんな"よくできた"作品を受け止める心を今の自分は持ち合わせていない。
富野監督がどっかで
映画はエンターテインメントであるべきです。つまりどういうことかというと、見て楽しくなるような娯楽でなければなりません
的なことを仰っていました。ハサウェイを観た時に"ああ!なるほど!”と深く感じました。
そして劇場特典のGのレコンギスタの無料視聴券を手にして
"本当にみるべきは、こっちなんだ"
そう感じました。
Gレコは明るくて正統派な"エンターテインメント"でした。ここまで考えていたのか?ハサウェイのスタッフは?とすら思いました。
とりあえず、あの明るくてこれからの出来事にワクワクさせるようなハサウェイのエンディングと、テロリストの最後のギャップがむごいと思います。そんなつらくなるのをみても救われた気分になりません。
一方でGのレコンギスタは見ていて爽快で気分がいいです。なのでGレコの劇場版を観ることをお勧めします。わりとまじで。